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膜越しの

 

作・t

 

 ユラユラと。

 

 水の中を漂って生きている。まあるい水の膜が私を覆い、包まれたままもう何年もその状態だ。意外とそれでも普通に暮らせている。水膜(といえばいいのか)の中で漂ってるだけだけど。

 息苦しくないかって聞かれたら、そりゃ、息苦しい。でも。

 

 息苦しさには慣れてしまった。

 誰だって何かしら苦しさを抱えていると思ってるし、私はそれが身体的な息苦しさなだけ。慣れてしまえばなんて事ない。水面(というのだろうか)から差し込む光は天気や時間によってキラキラ変化して奇麗で飽きないし、水のおかげで像が曖昧だ。確かに人の声は聞こえにくいが、雰囲気や声のトーンで察することはできるから問題ない。楽しそうに笑ったり、怒ったり悲しんでいるフリをして曖昧に返すだけ。相手はそれを自分に都合よく解釈して、満足する。成立。

 学校の友達や教師や、家族さえこんな不思議な状態の私に気付かない。誰も他人のことをしっかり見ていないから。かもしれないし、常識ではない部分は気付かないようにしているから、かもしれない。時折子どもが不思議そうに水膜を突いたりするぐらい。子どもはまだ世界をありのままに見ていて、水の中にいる私の事も見慣れないだけで異物ではないのだ。珍しいから突いてみた、ただそれだけ。純粋で素直なその感情は、なぜかまっすぐに届いてくる。そういう子どもには人差し指で「内緒だよ」という仕草をする。伝わっているのかわからないけれど。

 

 いつからこの状態なのかはっきりと言えない。少しずつ周囲に水が集まってきて、まずゆっくりと声が聞こえづらくなっていった。そのあと見えるものがハッキリしなくなり、いつしか水たちにすっかり包まれた。最初は苦しさにもがいたけど、代わりに世界が曖昧になって、ずいぶん生きやすくなったことに気付いた。その状態を受け入れたら、息苦しさもだいぶましになった。

 世界は私を蝕もうとするから膜越しの方が安全だ。視界も思考も曖昧だが、とろんとしたこの状態は心地がよい。本当に稀に街中で同じようなまあるい水膜を見かけることがある。大きさも形も様々だけど、膜同士ではさらに像が曖昧だから、どんな人だか窺い知ることはできない。ただ、向こうも私に気付くようで、私達は心の中で静かに挨拶を交わしている(ような気がしている)。

 

 水だと思っているのは培養液か何かで、実は徐々に体は溶かされていて形を保てなくなるのかもしれないと、たまに自分の体を確認したりもする。でもこのまま意識だけになっても気付かれないかも、と一人で可笑しくなる時もある。

 良い家族や、良い友達を持っている、多分。みんな私に優しくしてくれるから、私もその優しさを返そうとする。ただし水膜を挟んだ関係なのでぜんぶ曖昧だけれども。お互いにそれが、きっと優しくあれる距離なんだろう。水膜越しでいることで、ずいぶん上手くいくようになった。

 昔はーーー

 

 まぁいい。わざわざ昔を思い出す必要なんてない。お腹の奥の方から黒くて硬くてトゲトゲしたものが時折顔を出して、膜を破こうとしたり私を刺激したりして暗い気持ちにさせることもあるが、勿体無いと思い忘れることにしている。せっかく漂って心地よい状態なのだから。このまま、水膜のまま。漂っていたいとぼんやり思う。

 

 いつの日か、水の中から出て胸いっぱいに呼吸をする日が来るのだろうか。あるいは誰かが、この膜を破って外の世界連れ出してくれるのだろうか。

 

 まだ、しばらくは、このまま。

 でも、いつかは、多分ーーー。